【遊びの哲学】~ 絶対に「遊び」を軽んじてはいけないワケ ~

生活・社会

遊びこそが人間活動の本質であること

ビジネスパーソン、エンターテインメント、スポーツ、歴史に興味がある方、毎日がつまらない退屈だと悩んでいる人へ

 

ホモサピエンスはラテン語で賢い人間を意味します。

 

人間に取って遊びが極めて重要なものであるということ

 

遊びが単なる暇つぶしや娯楽でないとしたら、私たち人類にとって遊びとは一体どのような意味を持つものなのでしょうか?

遊びは文化よりも古い

子犬が遊んでいる姿を観察してみるといい。

その楽しげなじゃれ合いの中には遊びとはいったいどんなものなのかが現れている。子犬は一種の儀式めいた身振りや動作で互いに気を引きあったりする。

仲間の耳をちぎれるほど噛んではいけないという規則も守っている

まるで恐ろしく起こっているかのようなフリをすることもある。ただ何より重要なのは子犬はこれら全てを明らかに楽しんでやっているということだ。

 

では遊びとは一体何なのだろうかこれまで多くの学者がこの謎を解き明かそうと試行錯誤してきた。

 

そうして、あるものは遊びをありあまる生命力の過剰を解き放つことだと唱え、またある者は遊びとは緊張から解放されたいという欲求から生じる行為だといった。

このように遊びの機能については実に様々な解釈が行われてきたのだ。ただこういった考えに一つ共通して言えることがある。

それは遊びとはある種の生物学的目的に役立っているという前提があるということだ。

つまり何のために遊ぶのかという原因や目的を問題にしているのである。

もちろんこういった考えは受け入れられるし、いいたいこともよくわかるのだが、私はどうしてもあることを無視しているように思えてならない。

それは遊びの持つ面白さだ。なぜ赤ん坊は喜びのあまりあんなにも笑うのだろうか、なぜギャンブラーは情熱のままにのめり込んでしまうのだろうか?

なぜスポーツは何千という大観衆を熱狂させるのだろうか?こういった遊びの持つ面白さはどんな分析もどんな論理的解釈も受け付けない。

 

つまり面白さこそ遊びの本質なのだ。

 

遊びとは遊び以外の何かのために行うものであるというのが従来の考え方。一方で遊びとは遊び以外の何かのために行うものではない。

理屈ではなくてただ面白いから遊ぶんだという考え方というわけです

確かに大好きなゲームなど他人から見られたら全く意味の無いことに没頭しているときにそんなことして何になるの、意味あるのと言われても面白いからやってるんだとしか答えようがない気がします。

つまり、この面白さこそ遊びの本質であってそれは人間だろうが動物だろうが同じこととなんだよと言っているわけです。

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遊びの5つの特徴

➀自由な行動であること
➁利害関係がないこと
➂完結性と限定性を持っていること
➃絶対的秩序があること
➄非日常的であること

まず第一の特徴として自由な行動等ありますが、要するに遊びはやろうがやるまいが本人の自由というお話、例えば鬼ごっこ、でもサッカーでも自分が楽しいと思えばやればいいし、興味がないとかやる気が出ないのならやらなければいいです。

逆にやりたくないのにむりやり遊びに参加させられたとしたらそれはもう自由ではありませんので遊びの定義から外れてしまうというわけです。

そして2つ目の特徴は利害関係がないという点です。例えば積み木でお城を作ろうとしている子供は親の喜ぶ顔が見たいとかお小遣いが欲しいといったモチベーションで積み木をするわけではありません。ただ単純に純粋にそれが楽しいからやってるわけです。つまり遊びというのは儲かるからとかみんながやっているからとか何らかの必要性に迫られたり物質的な欲望を満たしたりする目的のために行う行為ではない。

3つ目の特徴は完結性と限定性があるということです。これは趣味として行なっているスポーツをイメージしていただくと分かりやすいと思います。サッカーでもフットサルでも前後半合わせて何分というようにあらかじめ終わりの時間が設定されています。テニスや卓球も同じです。何回かやったらゲームセットという完結性があります。さらに動ける空間もここからここまでというように限られています。つまり遊びとはこういった完結性と限定性が備わった空間の中で行われるものなのです

4つ目の特徴は絶対的秩序があるという点です。
例えば友人たちと趣味であるサッカーを真剣に楽しんでいる最中に相手チームの選手が手でボールをつかんでゴールまで走って行ったら、おそらくその場の空気は凍りつきます。つまりどんなわずかなものであっても違反は遊びそのものを破壊し無価値なものにしてしまうのです。

遊びには緊張感つまりやってみないと分からないという不確実性が重要であると考えられています。もし遊びの中に一切の秩序が保たれていなければその遊びの中には緊張感がなくなり、やっている方も見ているものもその遊びを遊びとして楽しむことができません。ですから遊びには必ず一定のルールが設けられているというわけです。

 

そして最後5つ目の特徴は非日常的であることです。つまり遊びとは世間の掟や慣習に縛られない日常から離れた場所で行なわれるものであるというわけです。

例えば皆さんも昔子供の時に秘密基地を作って遊んだことがあるのではないでしょうか?そこではビー玉がお金の代わりだったり、葉っぱがお皿だったり、明らかに日常とは離れた世界観が存在していたはずです。つまり遊びとは本来非日常的なものでありさらに秘密という要素を混ぜ込むことでその面白さが増大するものなのです。

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遊びと文化

一つ目のテーマ、神々を祀る神聖な儀式はどこからどう見ても遊びの特徴をみている

実際その儀式は柵で囲まれたとびの葉の中で祝祭として催されるつまり楽しさと自由この2つが溶け込んだ空気の中で行われている。

そして限られた時間の中で独自の世界が柵囲いの中で成立する。

しかし、この遊びが終わると同時にその働きまで消えてしまうわけではない。

むしろそれは日常世界にまばゆい光を投げかけ、祝祭を祝っている集団に対して神聖な遊びの季節が再び巡ってくるまでの安全秩序繁栄を授けてくれるのである。

つまり、神々を祀る儀式というのは真面目な文化的行事だけれどもそれと同時に遊びでもあった。
さらに非日常的だけれども完全に日常から切り離されていたわけではなくて、そこで暮らす人々の安全や共同社会の繁栄を願うものであったんです。

ただこういった儀式の持つ真面目さという要素と遊びという要素を並べた時にまじめさの色合いの方が濃いので、どちらかと言うと儀式なので遊びではないんじゃないかという疑問もあります。

 

要は人々が伝統だとか文化だとか呼んでいるもの例えば経営術ですとか音楽ですとかこういったものは結局遊びの中で発展し、今の形があるんですよ。

2つ目のテーマ、子どもの生活から最高の文化活動に至るまですべてを通じて一つの願望が働いている

それは自分の優秀さを認められ人から褒められたい名誉を授かりたいという願望だ。これは個人や集団がある目的や自己実現を果たそうとするときに強く働く人は何事についても自分はよくやったと満足感を欲しがっているがそれが乱された時心のどこかで自分以外の誰かと比べているものだ。

ある分野の第一人者になりたいのなら自分が第一人者であることをより知らしめなければならないだろうこの自分の他者に対する優越性を証明するために役立つものそれが競争という手段なのだ。

人から認められたいとか人よりも優れていたいという人間の欲望、これを満たすためそれを証明するための手段として競争があるという内容でした。

もし競争に勝ち自分が他者よりも優れていることが証明されれば心地よい楽しい面白いという感情が湧いてきます。

つまり、面白さを本質とする遊びにとって競争という概念は極めて重要な要素であるということなんです。

3つ目のテーマ遊びが失われた世界に移ります。

遊びはあまりにも真面目になりすぎたのだ。

文化の精神とは無関係私たちは闘争本能を常に刺激されている状態にある。目や耳から飛び込んでくる情報が他人よりも優れていたい勝っていたいという競争精神を絶えず揺さぶるのだ。

 

神の遊びとは特定の主義思想の影響を一切受けないなぜなら遊びの目的とは自分自身の内側にあるものだからだ。

その精神その気分は晴れやかであって行き過ぎた興奮ではないにもかかわらず今日の社会は人々を過度に刺激する手段をもてあそんでいる。それは、遊びの形式をとっているが決して遊びの精神の現代的な表現ならと理解してはいけない

現代はマネーゲームという名の偽りの遊びなどです。このゲームの世界では他の人よりも稼ぐことがある種の正義正解となりあらゆるメディアや利害関係者を通じて人間の持つ競争心が人々の心や社会から遊びという概念が徐々に消えていきやがて文化の消滅という悲劇をもたらすことになるのです。

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