酸素吸入器をつけながら息子さんの 結婚式に出席したお父さん、生き別れになっていたお子さんと20年ぶりに再会した方、 もちろんこのように穏やかに幸せに死を迎えられる方ばかりではありません。
こうした心の叫びに医者も医学も満足に応えることはできません。
苦しむ人に対し何もできない。他人は苦しみながらただただそばにいるしかないのです。人生最後のときが近づくというのは究極の苦しみです。しかし人は、その苦しみの中から多くのことを学びます。 自分が生きてきた本当の意味自分を穏やかな気持ちにさせてくれるもの、一人で抱え込んでいたものを手放し、誰かあるいは何かにゆだねる大切さそういったことに気づき幸せとは何かを知るのです。
それはきっと今の私たちにとっても 大切なものだと思うんです
最後の瞬間まで仕事に全力を注ぎますか?それとも愛する家族とともに過ごしますか?答えはおそらく人によってさまざまでしょう。どのような答えであろうとあなたが選んだものがあなたにとっての正解であり、あなたにとって本当に大切なことです。
しかし、そのような中で人はただ苦しむのではなく大切なことを学びます。日々の忙しさやさまざま なしがらみ思い込みなどから解き放たれ人生の最後を穏やかな気持ちで過ごすには何が必要かを真剣に考えるようになり自分にとって本当に大切なことに気づくのです。
また多くの患者さんは死が近づ くつれ自分の人生を肯定するようになります。たとえそれまで 自分の人生には華々しいことが何もなかったつまらない人生だったと思っていた人でも自分なりに地道に働き会社の役に立った家族の幸せのために一生懸命に頑張ったと考えるようになるのです 。
家族や恋人友だち仕事趣味など、その人にとって本当に大切なものはたいてい身近なところにあります。
人は本当の幸せを知っている。どんな 成功の日々も平凡な日常に勝らない、ただ生きているだけで十分に価値がある。
今日が人生最後の日と想像したときわかることは他にもあります。
それは日常というもののありがたさです。私たちはふだんお金がほしい出世したいおいしいものが食べたい、海外旅行に行きたいなどさまざまな欲望を抱えて生きています。
そうした欲望はもちろん前を向いて力強く生きていくための原動力になりますが欲望が満たされない と心の中に不満や苦しみ悩みが生まれることもあります 。そして病気になったり歳をとったりして身体が思うように動かせなくなると欲望のあり方は変わります。
それまでおいしいものが食べたいと思っていた人がもう一度自分の口で食事をしたいと思い海外に行きたいと思っていた人がもう一度自分の足でトイレに行きたいと思うようになる。
つまり当たり前の日常を望むようになるのです。 地震や火事といった災害に遭遇したとき何らかの事件に巻き込 まれたとき自分あるいは家族が病気や怪我をしたとき人生最後の日を意識したとき人はいやおうなく非日常の世界に連れていかれ、それまでの日常を振り返ります。
そして、ようやく自分が多くのものを手にしていたことに気づき感謝するようになるのです。 そう考えると常に今日が人生最後の日だという意識を持つことで日々の生活を大切にできそうな気がしますが残念ながらそれは簡単なこと ではありません。人が非日常を抱えながら日常を生きることはほぼ 不可能なのです。
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たとえば東日本大震災が発生したとき多くの人が日常のありがたさに気づき感謝したはずです。しかし、あれから数年経った今でもその思いを持ち続けている人はどれくらいいるでしょう。
非日常というのはとても過酷で疲れるものです。だからこそ人は非日常が長く続くと自分の心身を守るために非日常を忘れよう日常に戻ろうとします。
死というものを意識しながら生活し続けるのが難しいのもそのためであり常に緊張感を持って毎日を生きるというのはあまり現実的ではないんです。
一見平凡な日々をたんたんと長く積み重ねていく日常、一時的に何かに集中したり日常を振り返ったりする機会を与えてくれる非日常。
もし毎日の生活をつまらないと感じているなら時々でかまいませんから今日が人生最後の日だと想像 し非日常の視点から日常を眺めてみましょう。
食事がとれること布団でぐっすり眠れること大事な人といつでも会えること特別なことはなくともふだん当たり前に過ごしている 。
日常がいかに輝きに満ちたかけがえのないものであるかがわかるはずです。やらずに後悔してこの世を去ることが一番辛い。今の自分が絶対ではない間違ってもいい。しかし何もしなかった後悔は癒やされない 、
したいことやらなければならないことがたくさんあるのについつ い先送りにしてしまうという人は少なくないでしょう 。真面目な人であれば今はちょっと忙しいだけとわざわざ自分に言い訳をしたり何も行動していない自分が許せなくなったり自分はなんて ダメな人間なんだと自分を否定したりしてしまうこともあるかもしれません。
しかし、お伝えしたように常に緊張感を持って日常生活を送り続けるのはとても難しいことです。もちろん 中には日々全力を尽くして一生懸命に生きている人もいますが多く の人がふだん当たり前のように明日やればいいやと考え物事を先送りにしてしまうのも仕方がないことなのです。ただ死を前にしたときすなわち非日常の世界に足を踏み入れたとき本当にしたいことやらなければならないことが見えてくること があります。
以前看取ったある男性には生活を共にする女性がいました。いわゆる事実婚の関係です。お二人は何年も前から結婚を望んでおり過去に入籍に向けて動いたこともあったようですがさまざまな事情から実現には至らなかったそうです 。
しかし大切な女性を残してこの世を去る日が目前に迫り男性はどうしてあのときちゃんと手続きをしておかなかったのかとそのことを 何よりも悔やんでいました。
さらに看護師さんやケアマネジャー さんたちがレースのカーテンで作ったウエディングドレスを持参 し入籍が無事に済んだことの報告とごく簡単な結婚式を行いました。男性が長い間先送りにしていた入籍を亡くなる数日前に実現できたこと、それにより男性が穏やかな気持ちで最後のときを迎えることができたことはお二人にとっても、もちろん私たちにとっても非常 に価値のあることでした。
そのときの男性の穏やかな顔、妻となった女性の輝くような笑顔を私は一生忘れることはないでしょう 。したいことやらなければならないことを全部やるというのはなかなか難しいことです。人間は欲の塊です。
健康なとき人はなかなか抱えているものを手放すこと他人にゆだねることができません。ところが人生の 終わりが近づくと自分の力でできないことは手放そう。他人にゆだねようと思うようになります。
そこで人はようやく自分を縛っていたこだわりから解放され本当の幸せに気づくことができるのです。 自分でちゃんとやらなければという思いにとらわれ苦しんでいる人はぜひ一度今日が人生最後の日だったらと想像し手放したり他人にゆだね たりできることがないか考えてみてください 。
真実は死を前にして大切だと思えるものに宿る。自分が果たしてきた役割に気づけばこれで良いと自分の人生を肯定できる、自分の容姿や能力、持ち物あるいは夫の仕事や子どもの成績などを 他人と比べ優越感を覚えたり劣等感にさいなまれたりしてしまう。
そんな 経験をしたことのある人は少なくないはずです 。隣の芝生は青いということわざがありますが昔から多くの人が 自分と他人を比べ一喜一憂してきたのではないかと思います。 この比較の価値観によって劣等感や苦しさばかりが増したり自分の価値に気づけなかったりするようであればそれこそ今日が人生最後の日 だと想像してみるとよいかもしれません 。
死を目前にすると比較の価値はまったく意味を持たなくなります。 どれほど社会的立場があろうと財産があろうと才能があろうと死を逃れることはできないし、心穏やかに最後のときを迎えるうえ でそれらが役に立つわけでもありません。
他人よりもいい暮らしがしたい。他人よりも幸せな人生を送りたいと必死で努力してきた人が病気 であること残された時間が短いことがわかったとたん将来の夢 もアイデンティティも失い自分の人生は何だったんだろうと悩み 始めるそんなケースを何度も見てきました。人が自分にとって本当に大切なもの本当に自分を支えてくれるものに気づくのはまさにそのときです
それは家族かもしれないし友人や仕事仲間かもしれませんあるいは社会や他人のために何かを残すことかもしれません。もしかしたら本を読むことゲームをすることという人もいるかもしれません。
いずれにせよ健康なときには比較 の価値観に振り回されてわからなかったことがわかるようになる のです。
この社会で生きていくうえでとき には他人との比較が必要になったり、それが役に立ったりすることも、もちろんあります。ただそれ以外にも大事なことがあるということに気づけば真の意味で自分自身を肯定することができより穏やかな 気持ちで生きられるようになるはずです 。
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